本名今泉隆雄。1930(昭和5)年東京・日暮里に、歌舞伎好きの父と、宝塚付きの母の間に生まれる。仙台陸軍幼年学校に入学。戦後、鎌倉アカデミア演劇学校、舞台芸術学院を経て、劇団小熊座で俳優として全国公演に関わる。うたごえ運動にも参加。
1955年に朝日放送ホームソングコンクールにてグランプリ受賞。三木トリロー冗談工房に所属し、野坂昭如、永六輔と出会い、CM音楽、映画、ラジオ、テレビ音楽を多く作曲。1960年永六輔の誘いにより、「見上げてごらん夜の星を」のミュージカルを作曲したのをきっかけに、ミュージカル創作活動に意欲を燃やす。
1962年オールスタッフプロダクションを創立。1963年レコード大賞を受賞。1975年イズミ・ミュージックアカデミー創立、翌年アトリエフォンテーヌ開館。1988年ミュージカル「歌麿」で念願のアメリカ公演を果たす。1989年 参議院議員に繰り上げ当選。1992年5月11日、都内病院にて死去。生涯作曲した曲数は15,000曲、ミュージカルは110本を超える。結婚歴5回、酒(ウィスキー)と海をこよなく愛し、フォンテーヌというヨットでクルージングを行っていた。
1931(昭和6)年、中国・青島に生まれる。小学校4年の時に、上野音楽児童学園に入学、福井直俊氏、高田真一氏、ダカール・ヘルス氏に師事、1950年早稲田大学に進学し、在学中に「シックス・ジョーズ」に参加、一躍ジャズピアニストとしてとして注目を浴びる。その後ジョージ川口等と「ビッグ・フォー」を結成。さらに中村八大モダン・トリオを結成し、演奏活動を続ける。1959年、東宝映画への楽曲提供を契機に、永六輔とのコンビで、10曲を一晩で仕上げる。その映画の中の「黒い花びら」は、第1回レコード大賞を受賞。そこからは、「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」と継続的にヒット曲を創り続ける。1964年ニューヨークに音楽を学びに渡米。
1966年ブラジル・リオデジャネイロで開催された「第1回国際ポピュラー音楽祭」に日本代表として参加し、特別賞を受賞。1982年米国著作権団体より「SUKIYAKI」の功績が評価され、ヒット賞を受賞。1992年1月にシアターコクーンで「あの歌この歌・夢で逢いましょう」コンサートを開いたが、その年の6月10日、心不全にて死去。