太平洋戦争末期、ミッション系の女学生たちが音楽室で空襲に遭います。女学生たちは防空壕に避難しようとするのですが、「防空壕に入っちゃダメ!」と叫ぶ女学生がいました。
その女学生はよく見るとおばあちゃんでした。
彼女は「真夜中の太陽」の楽譜を音楽室にとりに戻ったため、一人生き残った女学生で、防空壕のなかで亡くなった友だちを助けようと、70年近い時をへてふたたびあの日に還ってきたのでした……。
一九四四年、運命を分けた音楽室、ただ一人生き残った女学生は―。
もしかしたら私は東京大空襲で死んでいたかもしれません。私は千葉県に疎開し無事でしたが、日本橋の自宅は全焼、祖母と叔母が亡くなりました。叔母は八か月の身重でした。戦争で死んだ子たちはもっと生きたかったし、やりたいことがいっぱいあったはず。その想いを私たちがコツコツとつなぐことで未来を開いていきたいと思っています。
「真夜中の太陽」という歌を作ったのは、わたしが二十三歳の時でした。
その頃のわたしは「生きるのがつらい」と思いながら日々を送っていました。傍目には仕事も順調で、環境にも恵まれて、幸せそうに見えていたと思います。でも人の幸不幸を決めるのは、環境ではなくて心なんですよね。
最初は歌作りのスランプ。それから恋人との喧嘩別れ。そのこと自体はそれほど深く悩んでいたつもりはなかったのですが、なぜかだんだん心のシステムみたいなものがうまく機能しなくなり、「来年は屋根のあるところで寝られなくなっているかもしれない」「食べ物を買うお金もなくなるかもしれない」などという根拠のないネガティブなイメージにとりつかれて、布団に入って目を閉じると、足の方から奈落の底にひきずりこまれるような恐ろしさに襲われるようになりました。不安定な自分の心に振り回されて、他の人のことなんて考える余裕もありませんでした。
そんなダメの極みみたいな状況の中で生まれた歌が「真夜中の太陽」です。
歌は本当に不思議です。自分自身がダメでも、そのダメな自分の奥から、まるで泥の中から真っ白な睡蓮が咲きだすように、きれいな歌が生まれてきます。たぶん人間の創作物というのは(誰の中を通って出てこようと)もともとは宇宙に存在している何か大きなものの表出なのでしょう。どんなふうに形にするかが人によって違い、それが各々の個性になるというわけです。
工藤千夏さんが戯曲のテーマのためにわたしの歌を何百曲も聴いて、その中から「真夜中の太陽」を選んでくれました。できあがった舞台は、歌を作った時の私の個人的なあれこれなど吹き飛んでしまうような本当に素晴らしいもので、客席で見ていて泣けて仕方ありませんでした。二十三歳のわたしのちっぽけな泥の中から生まれた火が、時を経て、こんなに美しい作品の一部となって輝いている。わたしを通って、工藤さんを通って、役者さんたちを通って舞台の上に咲いているのは人の日常や作為を遥かに超える、宇宙の花だ。そう思いました。
今回劇団民藝によって、長尺に書き改められた「真夜中の太陽」が上演されることを聞き、嬉しくてたまりません。幼い頃テレビで毎日拝見していた、素敵な日色ともゑさん。そして厳しい先輩方にビシバシ鍛えられた(というのは勝手な想像ですが)若い役者さんたち。どんな大きな、思いがけない、美しい花を咲かせて見せてくださるのか。楽しみで、楽しみすぎて夢に見てしまいそうです。